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ダンスチーム『Z-RAHZ』誕生秘話


皆さんこんにちは。

春という季節も相まって、最近は新規の会員様が順調に増えつつあります。(これも皆様のおかげです!)

新しい生徒様によく聞かれることの一つに「Z-RAHZ(ジーラウズ)って何ですか?」というものがあります。知らない人も多いのですが、『Z-RAHZ DANCE STUDIO』は、ダンスチーム『Z-RAHZ』主宰のMOHRIが代表を務めるダンススクールで、同時にZ-RAHZのメンバーの多くがインストラクターとして所属しています。

今回のブログではZ-RAHZとZ-RAHZ DANCE STUDIOをより多くの皆さんに知ってもらうため、ダンスチームZ-RAHZ誕生秘話をご紹介します。

※下記の記事は、2016年8月に開催されたダンスLIVE『FLASH POINT vol.10』で配布されたパンフレットに記載されたものの転用です。

 

「Z-RAHZの軌跡」interview about Z-RAHZ history

胎動

 「ダンサーが本当に輝ける場所を作りたかった」Z-RAHZ主宰のMOHRIは湧き出る思いを語り始めた。4歳でモダンバレエを始め、19歳で日本女子体育短期大学舞踊専攻入学のため上京。日本のJAZZダンス界の草分け的存在である柳昭子氏に師事することとなった。意外にも当初はJAZZダンスに馴染めなかったという。だが、柳氏の厳しいレッスンを受け、JAZZの公演に出演するほどにJAZZダンスの奥深さに魅了されていった。

 MOHRIは20歳頃から頭角を現し始め、柳氏が主宰するダンススタジオ「柳昭子JAZZ DANCE CITY(以降『JDC』)」では、23歳でインストラクターを任されていた。その頃はただひたすら、JDCインストラクターとしてスタジオの名を汚さないよう務めることに精一杯だったという。今よりダンサーに仕事があった時代、大手の芸能事務所に所属して歌番組やダンスミュージカルなどに出演するダンサー仲間も多かったが、自分を売り込むことには淡白だったそうだ。「周囲からは『もっとバンバン仕事取ればいいのに』と言われましたがその気になれなくて… その時は稽古を積むことが最優先でした」日々蓄えられていくダンスの実力とは裏腹に、本人に焦りはなかったようだ。だが、ダンサーとして上を目指す気持ちは強く、公演で良いポジションを与えられれば与えられるほど「『この子を使いたい』と思わせるダンサーになってやる!」という気持ちが膨らみ、日々のレッスンは欠かさなかったという。

 その気持ちはやがて彼女をダンスの本場ニュー ヨークへと向かわせ、そこで運命的な出会いを果たすこととなる。渡米中、彼女のダンススタイルに大きな影響を与えるインストラクターと出会ったのだ。当時、リズム系のダンスがまだ珍しかった時代、MOHRIはその自由な雰囲気と溢れる躍動感に魅了される。興奮冷めやらぬうちに帰国したMOHRIに更なる転機が待ち受けていた。師匠である柳氏より、「JAZZ FUNKクラスをやってみないか?」というオファーを受けたのだ。当時、新たなダンススタイルとして注目を集めつつあったFUNK系ダンスだが、JAZZメインのJDCにあっては異例のオファーだったという。「今思うと柳先生の度量の広さを象徴する出来事だったと思います」感謝の気持ちと共に彼女はこう振り返った。

誕生

 JDCにおいて、JAZZ、JAZZ FUNKなど幾つかのクラスを任された彼女は更に自分のスタイルを確立していった。そしてクラスを持ってから数年が経過。気づけば自分の生徒たちが成長し、ダンサーとしての技量を身につけ始めていた。この時から彼女にこんな気持が芽生えつつあった。「自分のダンスチームを作って、ステージで勝負してみたい」その当時、ステージを主催するといえばスタジオ、スクール単位が当たり前の時代。当時は今よりもダンスの興業が珍しく、大人数で舞台を作ることが観客動員数を伸ばす最も有効な方法であったからだ。もちろんまだ若かったMOHRIはそんな事情など知る由もない。興業としてのダンスステージの意味もわからず、ただやりたい気持ちだけが彼女の中で強くなっていったという。

 同時にMOHRIはダンサーとしての仕事も数多くこなしていた。自分を売り込むことには相変わらず淡白であったが、ダンサーとしての技量の高さは彼女に多くのオファーを与えていた。が、同時にダンサーとしての仕事に違和感も感じていたという。その頃の仕事の多くは、歌番組のバックダンサーや企業のPR活動の前座などであり、何か(誰か)に華を添えるという域を出ないものだった。「ダンサーの扱いは今よりひどかったかもしれません」苦笑いしながらそう語る彼女。その当時はバブル全盛期であり、今よりも「場を盛り上げる」という仕事は多かったようだ。TV出演の機会も多く、それを見て喜んでくれる人たちからの声援を嬉しくは感じていたものの、踊れる時間はほんの数分間。何よりも結局は人の後ろに過ぎない自分自身に憤りを感じていたという。

 そして1999年、彼女は胸に温めていた思いをついに実行に移す。「『ダンサーが主役の舞台を作りたい。そこでとことん自分を表現してみたい』と思ったんです」 以前から目をかけていた教え子たちに声をかけ、ダンスチームZEAL(ジール)を結成。同時にダンスLIVE「FLASH POINT」の主催を決定した。興業やステージングの知識などほぼ皆無 だったが、持ち前の決断力・実行力はそのようなハンデを意に介すことはなかった。興業経験を持つ知人の助けもあり、「FLASH POINT vol.1 - 渋谷club ASIA」「FLASH POINT vol.2 - 六本木 velfarre」と矢継ぎ早に開催し、いずれも会場を満員の観客で埋めることに成功した。「ダンサーが主役で存分に踊れて、かつお客様に満足して頂ける舞台を作れた」という確かな手応えを感じていた。

試練

 「FLASH POINT」vol.1,2を成功させ、やりたいことを実現できたMOHRI。だが、ダンサーとしての満足感は得たものの、興業としての「FLASH POINT」は必ずしも成功とはいえなかった。MOHRI 自身の経験不足からどちらのステージも収支は赤字。改めて興業としてのダンスステージの難しさに直面することとなった。vol.3からはそれまでサポートしてくれた知人の力を借りず、完全に自分たちだけでLIVEを企画。演出家、コレオグラファー、ダンサーとしてだけでなくプロデューサーとして収益の計算からスタッフの手配まで、あらゆることをこなす必要に迫られていった。「儲けようという気はまったくありませんでした。ただ自分たちのステージを観て欲しかったんです」そう話すMOHRIの目に後悔はない。

 当時からZEALと「FLASH POINT」の評判は上々で、vol.3 以降もチケットはほぼSOLD OUTしていた。ただ、MOHRIのステージに対する貪欲さはvol毎に勢いを増し、収支の見込みを超えて自分の踊りたい会場を抑え、自分のステージを作り上げることにこだわったという。「赤字は恐くなかった。その分は自分が働いて取り戻せばいいと思っていたから。それよりも自分たちのステージを観て欲しいという気持ちのほうが強かった」屈託のない笑顔でそう語るMOHRI。だが、計画性の乏しい興業がたたりLIVEは赤字続き。更にはステージ作り以外の作業に謀殺されるようになり、ダンサーとしての仕事が多忙な時期は「FLASH POINT」の計画すら立てられないまま数年が経過することもあった。加えて、vol.4,5と続けるうちに、結婚・出産などの事情でZEALを離脱せざるを得ないメンバーが現れたことも更にMOHRIにプレッシャーをかけていった。手塩にかけて育て、苦楽を共にしたメンバーが離脱するのを目の当たりにし た時は本当に辛かったという。

 「その時はすごくショックを受けましたが、時間とともに離脱したメンバーにはその人なりの生き方・決断があったと思えるようになり、辛いことも『変化の一つ』と前向きに受け入れられるようになりました」どこか清々しい表情でそう語る彼女。その顔は多くの試練を受け入れたものに宿る一種の覚悟を湛えていた。「興業を継続することの難しさ」「メンバー の人生を引き受ける覚悟」。「FLASH POINT」を継続するにつれ、彼女はさまざまな変化を受け入れるようになっていった。

成長

 vol.7を開催した2012年頃、再びMOHRIに転機が訪れる。vol.7でチーム名をZEAL(ジール)から Z-RAHZ(ジーラウズ)へと改名。それに呼応するかのように若手女性メンバーの成長、男性メンバーの増強が相次ぎ、ダンサー陣の強化が進みつつあった。いくつもの縁が重なり、MOHRIの描くステージを体現してくれるメンバーが集まったのだ。更にvol.7からは裏方のスタッフも強化され、彼女は初めてステージ以外のことに目を向けられる環境を得た。「これまではステージの完成度が興味の中心でしたが、裏方のスタッフを増強できたおかげでLIVEプロジェクト全体にこだわりをもって取り組むことができるようになりました」確かにここ数年の「FLASH POINT」はフライヤーやパンフレットのクオリティアップ、オリジナルグッズの販売など、より興業性を意識したLIVEに進化している。ステージのみならずLIVE全体にZ-RAHZの世界観を広げつつ、同時に公演プログラムにMCやお客様と一体になれるナンバーを盛り込むなど、ファンへの配慮もより強くなった。「ダ ンサーが主役の場を作りたい」という自身の希望だけでなく、それを望むお客様に歩み寄る姿勢は彼女のプロフェッショナルとしての成長を感じさせる。

 「vol.6あたりからLIVE会場を抑えるのが難しくなっていたので、ダンス向きではない会場で踊ることが増えてきました。でも『使いにくい空間をどう使うか?』を考えることで演出家として一段レベルが上がったのを実感しました」 MOHRIのいうとおり、昨今首都圏ではバレエやダンスの発表会ができる大型の劇場が減少しつつある※。「会場が手配できない」という理由でLIVEを諦めてしまうのは簡単だ。だが人間はむしろ制限された環境下でこそクリエイティビティを発揮できるという。要はその制限に挑むか挑まないのかの差だ。MOHRIという人間は迷わず前者を選択し、その結果、自身の能力とキャリアを磨いていったのだろう。

飛躍

 vol.7あたりから、MOHRIはダンスLIVEを興業として成功させることを意識していた。ダンサーと観客が一体となってステージを創り上げる喜びを分かち合い、何より毎年LIVEを開催できる体制を整えていった。結果、彼女が思い描いていた世界は着実に形になっていく。

  • 自分のスタイルで勝負、踊りだけでお客様を楽しませる

  • ダンサーが自分を表現できる場を存分に与える

  • その上で興業として成り立っており、vol.10、20と開催できる体制がある

 そして2015年6月、彼女は夢の一つであった自身のダンススクールを六本木に持つこととなる。同時に「ダンススクールの運営」「ダンスLIVEの企画・運営」を主要事業とする合同会社Z-RAHZ COLLECTIONを設立するに至った。「スクールの経営は個人でもできましたが、この先の『FLASH POINT』を考えた時に法人化すべきだと思ったんです」 劇団やダンスチームなど、個人が主宰となって団体を結成することはあるが法人化する例は少ない。これは、法人化は信用面で大きなメリットがあるものの、財務面について付帯する義務も多く、現場への負担が大きいためだ。個人活動を捨て法人成するということ、そこには「もっと前に進むんだ!」というMOHRIの決意が感じられる。

 「FLASH POINTはとにかく続けたいし、進化させたいんです」今回「FLASH POINT」はvol.10を迎える。1999 年にvol.1を開催してから実に17年もの月日が経過している。その間に日本のダンスシーンも大きく変化した。ストリートダンスの流行、学校教育への導入、ダンスボーカルユニットの台頭など過去無かった潮流が現れている。しかし彼女のステージ「FLASH POINT」は流行に流されない。だからといってそれらを否定もしない。そこにはダンスをリスペクトするMOHRIの世界観が広がるのみだ。そしてそれは他のステージで観ることはできない。一度でも彼女のステージを観た人ならわかるだろうが、そのパフォーマンスには「カッコいい」「上手い」以上の形容詞を冠したくなる。彼女のステージの凄さは、ダンス好きの人間に憧れを与えることは当然として、ダンス経験が無い人にもダンスの素晴らしさを感じさせるのだ。その証拠に「FLASH POINT」のお客様はダンスLIVEにしては珍しいほどに老若男女が入り混じり、非常にバラエティに富んでいる。「ダンスは人間の本能。誰もが楽しさを感じられ ます」

「FLASH POINT」の観客の顔ぶれを見ていると、 彼女の言葉に納得せざるを得ない。

進化

 彼女が人生をかけて作り上げてきたZ-RAHZと「FLASH POINT」そこには彼女の夢に共感する多くのメンバー、スタッフが集まっている。今回のvol.10ではダンサーの総勢は13人。それぞれがそれぞれの持場で最高のパフォーマンスを発揮すべく、日夜稽古に励んできた。「今のメンバーは皆すごく魅力的。でもそういう人たちにスポットが当たることは少ない。自分が 認めたダンサーの存在を広く世に知ってほしい」彼女がメンバーのことを語る時は決まって熱がこもる。そこには自分に夢を重ねてくれたメンバーたちに少しでも報いたいという彼女の想いが見え隠れする。幾つかの出会いと別れがあり、全てを受け入れた上で前進することを止めなかった彼女。そしてその想いに共感し集まった仲間たち。「ダンサーが本当に輝ける舞台を」という想いが彼らを舞台へと送り込んでいるのだ。

 そして、強力なダンサー陣のバックアップを得たMOHRIはvol.10で更なる表現を模索し始める。「今回、私の舞台で初めてテーマを付けたナンバーを作りました」2016年4月に発生した熊本の震災から感じたことをテーマにしたという。当初はこういった出来事をテーマとすることに抵抗があったが、熊本の方々をメディアで見るにつれ、希望を見出そうとする人間の強さ・素晴らしさに感銘を受け、「人間の持つ心の変化」を表現したくなったという。実はこれまで「FLASH POINT」をはじめとするMOHRIの舞台では、お客様が自由な解釈で楽しめるようにテーマを付けることをしてこなかった。「ある日突然、非日常に引きずり込まれたが、その中にあっても希望を見出そうとする人間の力強さをZ-RAHZらしく表現したかった」

 正直、今回のインタビューで彼女からこのような話を聞くとは意外だった。いつものとおり、軽快、 重厚、COOL、シック、笑いありと多彩な顔で私たちを楽しませてくれるナンバーを思い浮かべていたが、別の意味で鮮烈な裏切りを受けた。「ダンサーが本当に輝ける舞台を」という夢を実現しながらも、今の状況は彼女にとって途上に過ぎないのかもしれない。この先もMOHRIの変化が尽きることはなさそうだ。

※首都圏にある劇場やホールの老朽化に伴う改修や建て替え、閉鎖が相次ぎ、施設が不足する「2016年問題」2020年の東京五輪までに改修を済ませたい“駆け込み組”も今回の問題に拍車をかけるが、会場不足に悩む芸術団体側では廃業するケースも。(産経ニュース2016年5月6日版より)


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